なにも起きなかった一日を、ちゃんと終える 猫物語91話

夕方。
窓の外が、ゆっくりとオレンジ色に染まっていく。

モノは縁側に座り、外をぼんやり眺めていた。
チャトラは少し離れたところで、丸くなっている。

今日一日を思い返しても、特別なことは、なにもなかった。

けんかもない。
泣くほどつらい出来事もない。
かといって、すごく嬉しいことがあったわけでもない。

「……なぁ、チャトラ」

モノが静かに声をかけた。

「今日ってさ、なにも起きへんかったな」

チャトラは目を閉じたまま、しっぽをゆらした。

「せやなぁ。
なんか、拍子抜けするくらい、普通の日やった」

なにも起きなかった一日

モノは、胸の奥を探るように言った。

「昔のぼくやったらな、
『なにも起きへん』って日、落ち着かへんかったと思う」

「え、そうなん?」

「うん。
『このあと何かあるんちゃう?』とか、
『自分、なにかサボってるんやないか』とか」

チャトラは、ふっと息を吐いた。

「わたしもや。
なにも起きんと、
一日をちゃんと生きた気がしーへん」

ふたりの間に、静かな沈黙が落ちる。

夕焼けが、少しずつ色を失っていく。

終わらせ方が、わからなかった

チャトラが、ぽつりと言った。

「なぁモノ。
わたし、今日みたいな日、
どうやって終わらせたらええんかわからん」

モノは、少し考えてから答えた。

「……それな。
たぶん『事件』で終わらせるクセがついとるんやと思う」

「事件?」

「うん。
うまくいった、とか
失敗した、とか
怒られた、とか」

「そういう『区切り』がないと、
一日が終わった気せえへんのや」

チャトラは、はっとした顔をした。

「……確かに」

ただ、ここにいる

モノは、縁側の木目を見つめながら続けた。

「でもさ。
今日はもう、ちゃんと終わっていい日なんやと思う」

「なにも起きへんかったけど、
ちゃんと呼吸して、
ちゃんとここにおった」

「それだけで、一日は成立しとるんや」

チャトラは、ゆっくり体を起こした。

「……終わらせても、ええんやな」

 

「ええで」

 

「意味とか、成果とか、なくても?」

 

 

「なくても」

ふたりは並んで、夕焼けが夜に変わるのを見ていた。

今日を、今日のまま閉じる

空が暗くなり、
一番星がひとつ、静かに光った。

チャトラは、その星を見ながら言った。

「今日な、
なにも起きへんかったけど……
なんか、悪くなかったわ」

モノは、少しだけ笑った。

「そやろ。
こういう日を、ちゃんと終わらせられるようになるんが、
回復なんやと思う」

チャトラは、そっと目を閉じた。

「ほんなら……今日は、これでおしまい、やな」

なにも起きなかった一日が、
音もなく、やさしく終わっていった。


モノとチャトラより、あなたへ

なにも起きなかった日を、
「無駄やった」と感じてしまうこと、ないかにゃ?

でもね、
ちゃんと息をして、
ちゃんとここにいた一日は、
それだけで十分な一日にゃ。

事件がなくても、
ドラマがなくても、
一日は、終わっていいにゃ。


筆者の言葉

回復のプロセスにおいて、多くの人がつまずくのが
「なにも起きなかった一日」をどう扱うか、という点です。

慢性的な緊張状態にあった人は、
刺激や問題がある状態を「通常」として学習しています。
そのため、平穏な一日は
脳にとって“評価しづらい空白”として感じられがちです。

しかし、回復とは
「問題が起きなくなること」ではなく、
「問題がなくても一日を完了できるようになること」。

なにも起きなかった一日を
そのまま終わらせる練習は、
神経系が安全を学び直す大切なステップです。

今日を、今日のまま閉じる。
それもまた、確かな回復のかたちなのです。

 

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